恵信尼さまのご生涯

ご誕生

 恵信尼さまは、ご自身のお手紙から寿永元年(1182)のお生まれであることがわかっております。ご出身については、 京都の九条家とつながりのある方ではないか、越後の三善一族と縁の深い方ではないか、宮仕えをしておられたのでは ないかなど、さまざまにいわれますが、確かなことはわかっていません。

 恵信尼さまは承元元年(1207)、専修念仏停止の法難により越後に流罪になられた親鸞聖人と国府の草庵に おいて結婚生活をいとなまれました。お二人の結婚の時期につきましてはさだかではありませんが、本願寺に伝わる『系図』には、 お二人の間には6人のお子さまがいらっしゃったと記載されています。お子さまのうち、4人のお子さまは現在の上越市板倉区 周辺にいらっしゃったようで、ゆかりの地名が現在も残っています。

♦お子さまのお名前
女子(じょし)小黒女房(おぐろのにょうぼう)
善鸞(ぜんらん)宮内鄕(くないきょう)遁世号慈信房(とんせいごうじしんぼう)
明信(みょうしん)栗沢信蓮房(くりさわのしんれんぼう)
有房(ありふさ)出家法名道性(しゅっけほうみょうどうしょう)
益方大夫入道(ますかたたいふにゅうどう)
女子(じょし)高野禅尼(たかののぜんに)
女子(じょし)覚信尼(かくしんに)

関東から、そして京へ

 国府の配所で7年の生活をおくられ、建保2年(1214)ご家族は関東に向われました。稲田の草庵(現在の茨城県笠間市)を中心とした生活は、 念仏相続と伝道の生活でもありました。親鸞聖人のそばには恵信尼さま、家族がおられ「御同朋・御同行」の日々を過ごされました。

 関東での生活後、恵信尼さまは聖人とともに京都に向われましたが、72歳の頃、何人かのお子さまを伴われて越後に移られたようです。 このことも確かなことはわかっていませんが、恵信尼さまには、越後に財産があり、その管理が必要であったといわれています。

寿塔


恵信尼さまの願われた寿塔(五輪塔)

 大正10年(1921)に本願寺の蔵から、越後の恵信尼さまから京都の覚信尼さまに宛てられた文書(お手紙)が発見されました。この文書により、 親鸞聖人の求道のお姿や恵信尼さまのお暮らしの様子も偲ばれますことは、まことに有難いことであります。

 このお手紙には「生きているうちに、卒都婆を建てようと思って、五重の石の塔、𠀋七尺につくるよう注文しましたところ、塔師がひきうけてくださいましたので、 出来上がったら、すぐに建ててみたいと思っています。」(『註釈版聖典』818頁意訳)とあります。調査の結果、昭和31年(1956)、現在の上越市板倉区米増で 樹齢600年といわれるこぶしの古株とともに発見された、五重七尺の石塔が恵信尼さまの願われた「寿塔」(五輪塔)であると昭和32年(1957)に認められました。

終焉

 恵信尼さまのお手紙から、ご往生は文永5年(1268)、87歳の頃であると推測されています。当時の厳しい社会状況の中で、飢饉の年には大切な衣類も 食料にかえるなどして、家族や地域の人々にも、分け隔てなく接しようと懸命に努力され、親鸞聖人の示してくださった「御同朋・御同行」の教えを実践されました。 親鸞聖人のお示しくださったお念仏のみ教えを、正しくいただかれて生きぬかれた御生涯でありました。

(左)旧ご廟所の様子、(右)平成17年に整備された現在のご廟所の様子